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【2024/11/01 12:39 】 |

ガミガミ野郎
ここ数日、いらいらとして怒ったり怒鳴ったり。辺りの反応にまた怒り。
はたから見てれば、なんともいや〓なオヤジだった。

でも、今日は嘘のように冷静になって後ろを振り返る余裕すらある。
この振り返るってやつが曲者で、感情が爆発した後はきまってひどい自己嫌悪に陥る。ああすればよかったのに何でバカなんだ俺はとか、前はこんなんじゃなかったのになんてだめになったんだとかそんなネガティブな思考の波がくる。
まあ、今の時点で気づいてるということは、自己嫌悪の波も想定内の出来事だな。小一時間座禅して今の冷静さをできるだけ長続きさせてみよう。
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【2005/03/15 22:14 】 | ココロ | comment(3) | trackback()

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COMMENT:
無題
thinkさんこんばんは。その波解ります。同じです。怒ってる時はアドレナリン放出ぎみなんだけど、あとでそれ以上の自己嫌悪。凹みますよねー。。でもこうやって、それでも気持ち持ち上げてる人がいるのを知ると沢山元気もらえます。明日は平和な一日だといいですね〜
【2005/03/16 01:26】| | teru #9b10e23b74 [ 編集 ]
無題
あたしも「怒りのあとの自己嫌悪」がどれほどつらいかよおーくわかる。さんざん自分も体験しているし。でもね、前にも言ったと思うけれども、やっぱり感情、特に〈怒り〉は絶対どっかで「外に放つ」必要があると思うんだ。専門的なことはあたしも専門学校中途挫折者の身だしよくわからない。だからこういうふうに勝手に意見したりするのはよくないのかもしれない。でも、それでもやっぱり他の感情以上に〈怒り〉は内に溜めこんではいけないような気がするんだ。他の、たとえば〈憂鬱〉〈不安〉〈悲しい〉〈虚しい〉とかそういう気持ちって、どっちかっていうとその感情の「対象」がはっきりしてなかったりするよね。もちろん〈嫌悪〉とかになると自分または他人を対象としたものだったりするわけだけども、これは「外に放つ」類のものではない。むしろその感情を少しでも和らげるために「考え方を変える」「視点を変える」ことが大切だったりする。けど〈怒り〉はほとんどの場合その「対象」が存在する。そういう「対象の(ある程度)はっきりした感情(情動)」はやはり「外に放つ」必要があるんじゃないか、って何となくそう思うの。その「対象」が自分であれ他人であれ、その生じた〈怒り〉はどこかで発散させて自分の内に溜まったものを吐き出して減らさなきゃいけない。吐き出す「対象」は決してその「〈怒り〉の対象」じゃなくてもいい気がする。だからひとは、たとえば飲んで愚痴って「軽い〈怒り〉」を吐き出したり、誰か信頼できるひとにちょっとそんな自分の抱えている気持ちを吐き出して聴いてもらったり、ブログというものを通してその〈怒り〉を文字という形で吐き出したりするんじゃないかな、って。でないと〈怒り〉はどんどん蓄積されてしまって収拾がつかなくなってしまうから。・・・と、そんなふうに思ったりする。ちなみに自分は〈怒り〉を「声に出す」という形では吐き出すことができない。誰かと顔を合わせてその感情を話したりすることがなかなかできない。かといって、1人でたとえば「うわああああああああ」とか叫びながら壁に穴あけてみたりとか、そういうこともしない。←あたりまえだろうけどさだから、そんな自分は「文字という形式で、文章という言葉として」吐き出すことしかできないでいる。当然ほとんどこの行為は独り言と大して変わらない。でも、どんな形であれ「言葉として表現し〈怒り〉を外に放つ」ということはやっぱりとっても大切なことなんじゃないかと思うんだ。また偉そうなことを言っておきながら、対自分、となると仮にそうやって吐き出したつもりでいても、そう簡単にその〈怒り〉が収まるわけじゃないってことも重々承知している。ああまたしても長文コメントごめんね。坐禅したあとって、本当に冷静になってる自分を実感したよ。こないだの2回目の参禅のあととか特に。いつもならかなりイライラするようなこともなぜかあんまりそういうの感じなくて、なんていうか、どっか醒めてるような自分がいた。でも、たとえば(つうかまあウチの場合なんだけども)相手がものすごくイライラしてるときに逆に自分だけ妙に冷静だったりするのって、なんかすごく奇妙な感覚だった。坐禅は心を鎮めてありのままの姿をただ受けとめることを求めて行うもので、禅というものの考え方そのものも「一つ一つの物事や感情に〈とらわれない〉」ことを由とする。でも、もし仮に自分がこれをほぼ完全に体得できたとして(って自分にかぎらずそんなことはありえないのだけど)、もしもすべての感情を「ただ流すのみ」となって自分や他人の感情をそうやって受け流すだけとなってしまったとしたら、あたしはそれってむしろ「人間でいる意味がないんじゃないか」って思ってしまうんだ。人間である以上、ある程度いろんな感情に左右されることは自然なことだし、感情に振り回されてるときは「感情なんてすべてなくなってしまえばいい」とか思ったりするけど、本当に本当に感情がなくなってしまったとき、それはものすごい苦痛を「感情がない心で感じる」ものだと思う。あたし軽い離人感を感じることがたまにあって、そういうときは何を見ても何も感じることができなくてものすごくつらい。入院前の一番うつがひどかったときも、自分のなかに存在する感情ってものがただただ意味もなくすべてが〈悲しい〉のと〈虚しい〉のと、そのたった二つしかなくなってしまって、こんな状態の自分はもうただ息をしてるだけのイキモノなだけで〈人間〉ではなくなってしまったんじゃないか、って本当につらかった。・・・ごめん。なんかそれこそ「収拾がつかなく」なりつつあるわ。もうやめとこ。なんかいろいろ書き殴ってしまってごめんね。これでもし〈怒り〉を感じたとしたらコメント削除して。笑
【2005/03/16 06:05】| URL | psyche #9b2b6080ff [ 編集 ]
無題
押忍穴をあけてよい壁があればあけてみたい感じです。←どんな感じかわからんブログに書くよりも一気にアドレナリンを放出するような、身体的にガーッやれるほうが自分には向いているような気がしています。高校生の時3年間空手をやっててまたやってみたらいいかもな、とか考えているのだけど、ブランクが長すぎて殴って蹴ってストレス発散に行くつもりが、殴られ蹴られでストレス蓄積になりそうでちょっと躊躇。折りよく「(空手を)やらないか」と誘ってきてくれている先輩がホモっ気がありそうなので更に躊躇。感情の制御が効き過ぎると何のために生きているのか良くわからん状態に陥ってしまう。多分、メリハリなんでしょう。うつじゃない時は感情を爆発させるがいい。うつの時はじっと耐えて波をやり過ごす。そんな感じですかね。
【2005/03/16 13:02】| URL | think #937768cc1f [ 編集 ]
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